最近、小説を書くのが楽しい。
小説は、ぼやかさない
小説は、書いていて「ぼやかす」必要をあまり感じない。くっきりはっきりと書くことにためらわない。
ツイートなど、フィクションではない前提で何かに言及する時は、ぼやかす必要性があると思うことが増えた。誰かを否定的に書かないように、誰かを怒らせたり悲しませたりしないように気をつけて書く。
小説でも誰かを怒らせるように書くわけじゃないけれど、くっきりとした展開を作るために悲しみや苦痛を明確に書くことがある。そういう状況で、配慮するよりも「表現する」ことを優先できるのが小説だと思う。
フィクションなので、特定の誰かを傷つける意図はないし、それは読んで頂く人にもきっと伝わる。その前提で、面白く劇的な展開を作るためには表現に躊躇している場合ではない。
ブレーキではなく、アクセルを踏むように攻めて書かないと伝わらない。そういうプレッシャーがあるように感じられて、それがすごく心地いい。
小説には中庸の魅力がある
小説を読んでいて、人の抱える事情や背景に感じ入ることが多い。
人を傷つけてきた人にも過去があり、その過去が誰かの思い出と共通だったり。一面的でない複雑な背景に、愛のある目線を向けて描くことが感動に繋がる。
これは物語の持つ希望のように私は感じる。
短めの記事の場合、どちらかというと先鋭的でセンセーショナルな切り口のほうが注目されるし、面白いと評価される傾向がある。
小説や漫画、映画などの物語は、先鋭的なだけでは人の心に届きにくいように思う。色々な人の立場や背景を理解する中庸さが、感動に結びつくのが大きな魅力だと思う。
物語はラディカルじゃないほうが面白い。論評する記事は過激に極端に尖っているほうが魅力的で惹きつけるところがあるけれど、小説や漫画はラディカルに触れていない方が魅力的だと思う。中庸であることが円熟の味わい、心に届いて感動を呼ぶ面白さに繋がる。これは物語が持っている大きな魅力だと思う
— そめや あやみ (@AyamiSomeya) January 14, 2022
触れる→振れる
(誤字)
「ラディカルに振り切れていないほうが」の意味です。— そめや あやみ (@AyamiSomeya) January 14, 2022
そんな訳で、最近は小説の魅力を感じつつ、遅筆ながら書いている。
エブリスタに投稿している小説は、自分の全部を体当たりするような心境で書いていて楽しい。
「きみの野望が欲しかった__Twitterから始まる連鎖」
https://estar.jp/novels/25780024
よかったら是非、読んでみてください。今週土曜日、2/12に完結します。