私は、一般的に言われる「母性」は自分にほとんどないと思っています。
子どもに時間・手間・お金をかけることが面倒に感じると何度も書いてきましたが、
一番自分でも堪えるのは「娘の笑顔を可愛いと思わない」ことです。
娘はよく笑います。
美味しいものを食べて笑い、目を合わせて笑い、歌いながら笑い、私の歌を聞いて笑い、夫にあやされて笑います。
その笑顔は、一般的に言えばとても可愛いのだと思います。
けれど、それを見てもそれほど心が動かないのです。
ああ、笑っているな。元気だな。いいことだ。良かった。
と冷静に思うだけで、
感情の動きはとても小さいのです。
このことが、ずっと私は堪えていました。
なぜなら、それに対して夫の笑顔を見る時は、私の感情の動きはとても大きいからです。
夫の笑顔を見ると「生きててよかった」と毎回思いますし、愛おしくてたまらなくなります。
夫の笑顔が私の生きがいです。
一般的に言われる「子どもの笑顔が生きがい」
「子どもの笑顔を見たら頑張れる」
の「子ども」を「夫」に入れ替えるというイメージです。
感情の動きだけは、どんなに努力しても変わらないものです。
それほど好きでない存在を、非常に好きな存在に(自分の意識を)変えることはとても難しいことです。実際、本当にそうでした。
それでも、私が娘に強く心動かされるタイミングというのは、確かにあります。
娘は、ドキッとするほど、私に似ていることがあります。
言葉の覚えたてから、ほとんど言葉を発していないうちから
「なんで?」
を連発した時。
「なんで?」を使うタイミングは合っているのです。
そして、理由を説明してあげると納得した様子になるということ。
他のどんな言葉よりも聞き取りやすい発音でしっかりと、何度も「なんで?」と話す娘を見ていると
どんな時も「なんで?」と思っていた私の幼少期を思い出し、
ああ、本当に私の子だなあ…。と感じたのです。
また、娘は歌が異様に上手です。
音域もとても広く、高い声を柔らかく美しく響かせることができます。
私が歌うと、それに合わせて踊りながら満面の笑顔を見せます。
母親の私も、音大出身で歌はそれなりに上手です。
細かいところもとても似ていて、洗面所で過ごすこと・手洗いがとても好きだったりとか、綺麗好きでトイレを覚えるのが早かったりとか、挙げるときりがないほどです。
娘が私に似ている。
そのことが、最も私が娘に感動したことでした。
なんだか自分のことにしか興味がない人間みたいですが、
私はそのように感じます。
世の母親は、自分に似ているかどうか等関係なく、小さな赤ちゃんを目の前にするだけで「守ってあげたい」という気持ちが延々とわいてくるのでしょうか…。
子どもが小さいうちは、自分に似ているかどうかは正直あまり分からないと感じます。少なくとも私はそうでした。しかしその時期の育児は過酷です。
世の母親の人生相談には、どんな状況であっても、決まり文句のように「息子or娘のことは愛しています」と書かれているのを見て(なんでそう言い切れるのだろう…?)といつも思っています。
「なんで?」
と思う気持ちは、どんな時でも持っていました。
それを娘も強く持っていてくれたとしたら、それは嬉しいことです。
娘が産まれてから半年間ほど、私が苦しんでいたことは
「育児の何に喜びを見出せばいいのかが分からない」
ことでした。
自分が何に喜びを見出せるのかが予想できないまま、娘を育てることは正直つらいこと
でした。
喜びのために努力すると分かっていて、それが実現するまでに時間がかかるのであれば、そこまで暗い気持ちにはなりません。
この努力の先に、希望を描けるかどうか。
その希望が見えないことが、とても苦しいことでした。
しかも、自治体の保健師や電話相談の担当者(育児経験者)などに「(あなたは)子育ての何に喜びを見出していますか?」という類の質問をしても、向き合ってくれず、まともに質問に答えてくれないのです。
大体が、(はぁ??)というような反応をされます。
何を言っているのかが分からない。なぜそんなことを聞いてくるのかが分からない。という反応です。
私がそういった質問をする時は、精神的にかなり追い詰められているので、
(はぁ??)といったような、全く共感のない反応に、それだけで傷ついてしまい、相談したことを後悔するという悪循環でした。
そして、大体が「そんなことを考えなくていい」と言われるのです。
私は(何を考えるかってことくらい、自由にさせてよ)と、何度も心の中で悪態をついたものでした。
「考えなくていい」ことで、何か心が楽になるとでも言いたいのでしょうか。
ただ、質問に答えてくれればいいのに。自分は、こういうことに喜びを感じている。と答えてくれればいいのに。それだけでいいのに、なぜ、それだけのことをしてくれないのだろうか。
そういった質問だけではなく、「夫のことは愛しているが、子どもに愛を感じない」と訴えれば、「あなたは自分のことしか興味がないんでしょう。ご主人にも、お子さんにも、本当は全く興味がない人なんでしょう」とあえて傷つけるようなことを言われたことも、忘れることはできません。
今思い出すと、そういった相談の中で最も「相談して良かった」と思えたのは、
電話相談で男性カウンセラーと話した時でした。
男性カウンセラーは、私の悩みに対して決めつけず、私の思いを察して苦しみに共感してくれました。
私の悩みを聞いて上から目線で「考えなくていい」「あなたは自分のことしか興味がない」などと言うのではなく、
「それは本当につらいですね」と心をこめて言ってくれたのは男性カウンセラーでした。
自治体の相談窓口には何度も電話したのですが、何度も女性カウンセラーには嫌な思いだけが残り、何度も男性カウンセラーには強く共感して頂きました。
複数回に及ぶあまりの違いに、「男性をお願いしたいのですが」と言ってしまったこともあります。
自治体の窓口なので不可能でしたが。
男性は一般的に共感能力に欠けると言われているから、カウンセラーとして特に意識しているのかもしれません。
女性カウンセラーは、同じ母親であれば分かり合えると思って油断してしまうのでしょうか。
私が「娘が私に似ている」ことに喜びを見出すことができたのは、確かに自分で経験することで体得することでした。
けれど、「何が喜びか分からないのに身を削る努力が求められる」ことこそが、産後の苦しみの根幹だったのに、「それは自分で経験しながらつかんでいけ。考えるな」という対応をされたことは、それ自体がすごく悲しいことでした。
泣きっ面に蜂、弱り目に祟り目。
とにかく産後はつらかった。悲しかった。
子育てに関し、その悲しさを上回るほどの喜びは、数年経っても得られていません。
今後も上回らない可能性はあると思っています。
私の「子ども嫌い」は自分で思っていた以上に深刻だからです。
それでも、子育てを辞めることはできません。
だから私は、更なる喜びを見出すように努めながら、模索する日々を続けていくのだろうと思います。
いつもブログを読んでくださり、ありがとうございます。
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