前回の続きです。
母に言わせると、父も
「女性はずっと長く会社勤めすることはできないから、手に職をつけた方がいい。音楽の能力があるならそれでいいんじゃないか」
という風に同意したらしいのですが。
母を放置していた父にも問題はあると思いますし、それ以外にも掃除・片付けを一切しない母を注意せず(父も片付けや掃除をせず、休日も散歩ばかり)、不用品とホコリに占領された実家になるまで放置していたこととか、
父にも複雑な感情は正直持っていますが
それでも、父のことは憎めません。
なぜなら「楽しかった思い出」があるからです。
私と父は、私が中学生頃までずっと、土日祝日は一緒にお出かけしていました。
今思えば、母に楽をさせるために連れ出していたんだなとも思いますが。
母は基本的に家族のお昼ご飯を作らない人なので、お昼は子どもを連れ出さなくてはならなかったという事情も大人になって分かってきましたが。(学校に持参するためのお弁当は作ってくれましたが。)
それでも、たくさんの楽しい思い出があります。
父が人生で一番かっこよかったシーンを見ていたのは私かもしれないとも思っています。
父がボランティアとして、多くの子どもたちの前で本を朗読したこと。
この先もきっと、忘れることはありません。
父は本の朗読がとても上手でした。
感情をこめて、ドラマティックに読む人でした。
父が毎週図書館に連れていってくれたおかげで、私は大量の本を読むことができました。
小学生の頃、友達とうまく付き合えなかった私は、本を読んでいる時だけが心安らげる時でした。
父と小さな頃の休日、一緒に過ごした思い出は、私と父だけが共有しているものです。
この先、父が亡くなったら。もしくは認知症になって忘れてしまったら。
その思い出は私だけのものとなります。
そう思うと、とても寂しいです。
その「寂しい」という気持ち。もしかしたら、それが一般的に親を思う気持ちに近いのかもしれません。
「思い出の力」というのはあるのだなと思います。
母とも思い出がないわけではありません。
懐かしく思う出来事もありますし、喧嘩しながらも、独身の頃、最も長く一緒に時を過ごした母を「完全に憎む」ことはできないかもしれません。
しかし、懐かしく思う、その数時間後には憎悪の気持ちでいっぱいになってしまうのが「母」に対する私の思いです。
私が「母性のない母」として娘に接していくこれからの人生で、娘が将来私のことを何と思うのかは分かりません。
正直、この世の中はとても厳しいので(この先ももっと厳しくなると思っています)、
「こんな世の中に産み落としてひどい。お母さんに産んでくれなんて頼んだ覚えはない」
という風に
産んだということ自体を憎まれ、強く嫌われたとしても仕方ないと思っています。
それくらいこの世の中は厳しいと思います。
孫を産んでほしいという気持ちもありません。
すべてを捨ててでも。自分の命を失ってでも、何としても自分の子どもが欲しいと思えば産めばいいと思いますが、
そこまでの思いがないのなら子どもは産まない方がいいと思っています。
こういった気持ちを抱くのは、私が大学まで学んできた音楽に対する気持ちとも似ていて少し嫌になるのですが。
「すべてを捨ててでも、どうしても音楽をしないと生きていけない!!というほどの強い気持ちがないのであれば、音楽を専門にしない方がいい」
という考えを私は今でも強く持っています。
それと似たような発想を出産・育児に対しても持っています。
考え方の癖とでも言いましょうか、自分が選んだ道に対して冷めた目で見る習慣があります。
選んだ道は、もう仕方ないのですが。
この考え方をいさめて、現実的に日々を生きるために言い聞かせていることがあります。
「すべてを捨てる可能性もあるけど、そうではなくて素晴らしい収穫が得られる可能性だってある。
それをしなかった時に(素晴らしい収穫があったかもしれないのに)と、死ぬ時に悔やむ可能性。
それをした後にすべてを失って悔いる可能性。
どちらの方がより強く悔やむだろうか…?」と。
私は「やらない後悔よりやって後悔」という言葉には共感しません。
「やらない」場合には、別のことをする機会が残されているわけで、
「何かをする」ということはイコールで「機会(チャンス)の損失」でもある
と考えています。
(独身女性の不倫などで考えると分かりやすいと思います)
また、もう一つ別の観点。
人生の問題を「確実に解決していく」ことにこだわると、どうしても「この先後悔するかも」という観点には目を背けることになる。
人生の確実性と、もしかしたら後悔するかもしれないという「自己実現にこだわる気持ち」は、相容れないと思います。
やりたいことを無計画にやると、思わぬ落とし穴に落ちることがある。というのが一般的に分かりやすいかと思いますが、
例えば健康な子を産みたいということを確実に決めたいがために、子どもを産む時期にこだわるという自己実現の度合いを完全に無視してしまった後悔が残っているというのが私です。
でも、一言で言えば
「仕方ない」
のです。
前向きに言えば
「それが私の人生」です。
悔やむことも含めて、自分の生きてきた証がそこにある。
それを受け入れ、愛せる人間になりたいと、日々願って生きています。
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