強制入院で経験したこと(3)~悲しかったこと、嬉しかったこと~

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

精神科の入院生活では基本的にやるべきことがなく、食べること、寝ること、お風呂に入ることぐらいで一日を過ごします。

その他の空き時間はずっと一緒に入院している仲間との会話に明け暮れていました。

洗濯機もあり、長期の入院生活にも対応できる設備が整っていましたが、私は幸い両親が毎日お見舞いに来てくれて洗濯してくれたので、洗濯もせずに会話ばかり楽しんでいました。

私の両親は人生の進路を強制するひどい親であったと同時に過保護で、過保護によって両親なりの愛情を私に表現してくれていました。

ただ、入院中に私の母親が発した
「統合失調症は親の育て方が原因じゃない。そう先生が言ったのよ」
という言葉は忘れることができませんが。

それはそういうことになっているでしょう。医学的にそう言われていることでしょう。

「でも、それって、その時病気に苦しんでいる私本人に言うことだったのかな???」

統合失調症は、原因不明の脳のエラーが原因と言われています。

母親の育て方や、大きなストレスが原因ではないと言われていますが原因の究明はされていません。

正しい原因は分からないに等しいのに、育て方という要因は早々に排除しているようです。

それは、暗に「お前の頭がおかしい」と言っていることと同じ。

本当の原因は分からないけど、親はとにかく悪くない。ストレスも原因ではない。

「生まれつきお前の頭がおかしいんだよ」

医学ではこういう考え方をしているようです。

本人としては辛いです。

「ああ、自分はもともと頭がおかしいからこういう思いをしなくてはならないんだな」

と自分を責めることはつらく悲しいです。

入院中の楽しい経験についてたくさん書きましたが、
「なぜ私はこんな思いをしなければならないのだろう?」
と常に思っていました。

なぜ、普通に充実した学生生活が送れないんだろう。

なぜ、私は統合失調症になってしまったんだろう。

私の将来、大丈夫なんだろうか・・・。

漠然としてですが、不安は常にありました。

私の母はこの件に関してデリカシーがなかったのでしょう。

私はその時はさほど怒りを感じませんでした。

その後私は無事に退院し、人生の駒を一つ一つ進めていくことになりますが、統合失調症という病を背負ったことで結構な苦労もありました。

その苦労をしている最中も怒りを感じることもありませんでした。

今、私が幸せを手にして思うことは、
「怒ることができるのは、幸福なこと」
ということです。

今は、両親の失言に対し怒ることができます。

一般的に世間は、怒ることを否定してきます。

「怒ることをやめろ」
と頻繁にプレッシャーをかけられるよう
に感じるのは、日本の「水に流す」という文化にも起因していると思います。

でも、怒ることができるのは、自分自身を大切に思うプライドが正常に機能しているからと私は考えます。

今の私は、自分を傷つけ蔑視するものに対して怒ることができます。

それは私を大切にしてくれる夫がいて、

守るべき存在である子どもがいて、

快適な住まいがあり、

自由になるお金と時間があり、

やりたいことをやって暮らす幸せがあるからです。

幸せだから、プライドが生まれる。自分の味方がいるから、自分を傷つける対象に怒ることができる。

共感はあまり得られないかもしれませんが、

「怒ることは幸せなことである」

という私の人生哲学の一つです。

入院生活の話に戻ります。

たくさんの同病の患者さん達と会話する中で、忘れられなかった言葉がありました。

「なんであやみちゃんはここに入院しているの?ここにいる雰囲気じゃないですよ。全っ然、普通じゃないですか」

そう、私は最初の症状こそ強く重く出たものの、症状が治まるスピードはとても速く、「普通の雰囲気」の人になっていたのです。

きっと、私は一般の社会に戻ってもやっていけるはずだ。

そう自分に言い聞かせる度に思い起こした言葉でした。

そして、退院してからも何度も自分を鼓舞するために思い出し、だからこそ忘れられなかったのでしょう。

でも私に言わせれば、心に闇をかかえた一児の母Iさんも、私を慕ってくれた笑顔のYちゃんも、普通に見えました。

話の内容こそ少し変わっていたかもしれませんが(それを言うなら私も変わっているような…)、話し方や表情に病的なものを感じることは難しかったです。

お見舞いに来られたご家族と話しているIさんの、優しい表情は今でも覚えています。

「優しいママになって帰るの」
と娘さんに語り掛ける姿はとてもきれいでした。

入院している間に、高校の卒業式が終わりました。

高校では、登校拒否している時以外は抜群の成績だったため、卒業することはできました。

卒業式には当然出席できませんでした。

高校の同級生のうちの数人が私の母親に連絡をとり、お見舞いを申し出てくれたそうですが、主治医のM先生の許可が出ず断ったそうでした。

できる限り、病気を治すために刺激を断つ。そして徐々に慣らしていく。

その方針は、退院してからも変わらず、私の人生の可能性も狭めてきたように感じつつ、そんな日々を長く過ごしていました。


人気ブログランキングへ