「統合失調症」という烙印から逃れたい。
それは私が常に願っていたことでした。
自分の脳みそが他の人達よりも比較的弱い、ということは分かっています。
要はストレス耐性が弱いのです。
ストレスを受けるとくよくよと悩み、さらにストレスを受けることを恐れる。
毎日毎日ストレスにさらされる環境にいると、次第に生きることが苦痛になってくる。
そんなことの繰り返しでした。
そもそも、統合失調症には「寛解」という概念はありますが、「完治」という概念はありません。
それは、一生お薬を飲み続けていくということです。
このことを、私はよく知っていました。
お医者さんに、耳にタコができるほど聞かされていたことです。
それでも目指したのは、お薬をゼロにするという目標でした。
もともと、私は変わり者です。
どこに所属しても、なかなか友達の輪に入ることができず、何だか居心地が悪く感じるタイプでした。
社会人になっても、まともに稼ぐこともできませんでした。
そんな私でもできることがある。きっとある。
そう信じて、あえて「統合失調症の完治を目指す」という目標を掲げました。
そして今たどりついた、お薬はゼロで精神科への通院も全くなくなった日々。
私が成し遂げた、人生で一番誇れることだと思っています。
前回記事では、統合失調症という病名と戦ったことについて書きました。
その時叩きのめされたことは、私が腰をすえて少しずつお薬を減らす覚悟を固めていく中で出会った、つらい出来事でした。
抗精神病薬には、維持量という考え方があります。
最低〇mgは服用し続けていきましょう。という指針があります。(お薬の種類によって異なります。〇mg~〇mgのように、幅があるものです。)
維持量の下限にまで減らすことができたら、一つの山を越えることができたと感じます。
もっとも、日々を過ごす中で持病についての勉強は不足し、私が維持量という考え方を知った時には、もう維持量の下限を更に下回る服用量にはなっていたのですが…。
私の過去の話に戻ります。
大学生活の後半となると、一般的には就職活動を行うものと思います。
私の所属していた大学は特殊な分野の単科大学だったため、
必ずしも皆が就職活動をするところではありませんでした。
私は「何らかの仕事をしなくては」という意識はありましたが、
大学ののんびりとした雰囲気に流されていたところがあり、初めから正社員ではない道を選んでしまいました。
新卒のチャンスはたった一度であること。知らなかったでは済まされませんが、そういったことを実感できなかった、世間知らずの学生でした。
そこから私は経済的に苦しい生活を余儀なくされることとなりました。
大学卒業後、すぐに就いた仕事は民間企業の講師の仕事で、
正社員ではなく、アルバイトでもなく
「委任契約」の仕事でした。
委任契約だったこの仕事が曲者で、
自営業であるという建前で
雇用保険等の、いわゆる「職場で加入する保険」
は一切ありません。
固定給は一切なく、時給でもなく
「歩合給」です。
一コマ教えたら、そのお月謝の〇割を頂けるというものです。
その歩合の率はとても低いもので、
その歩合率を上げていくためには
数万円する試験を受けていかねばなりません。
その試験は多岐にわたっていて、
数多く何種類も受けなくてはならないと説明されました。
生徒さんからお支払いされるお月謝も安価でした。
自営業という建前なのに、拘束はかなり厳しく、お休みを自由にとることも
できません。
完全にブラックな仕事です。
その分野の講師の仕事が人余りになっているため
需要と供給のバランスが崩れ、
条件の悪さが常態化している業界でした。
「分野」について、ずっと伏せてきましたが、分かりにくいと思いますので
書かせて頂きます。
音楽です。
私は音楽を専門に学び、音楽大学を卒業した者です。
音楽の仕事は「音楽という存在が何よりも大切で心の底から愛している」という人でないと務まりません。
極端な話ではありますが、乞食になったとしても音楽を捨てない覚悟が必要と思います。
私はそこまで音楽を愛する人間ではありませんでした。
音楽に対する熱い思いを持たなかった私は、音楽大学卒業後、音楽との距離がどんどん広がっていくこととなりました。
私は音楽の講師を在学中の研修の段階でさっさと辞めてしまいました。
待遇の悪さに耐えきれませんでしたし、
生活が成り立たないほどの給料の低さが予想されて、
完全に嫌になってしまったのです。
辞めることを告げた時、直属の上司にはきつく罵倒されました。
私は心を無にして、何も感じないように努めてその場をやり過ごしました。
「何も感じないように心を無にする」
この習慣は小さな頃から持っていて、どうしようもない心の痛みを感じなくするための手段でした。
新卒で見つけた音楽の「委任講師」の仕事を辞め、ほどなくして4月になりました。
新しく迎えた春。
その時、私には仕事はなく
「大学生」から「無職のニート」となりました。